小林光コラム-小林光のエコ買いな?

公益財団法人日本経済研究センターのサイトに連載中のコラム「小林光のエコ買いな?」を、許可を得て転載しています。
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第1回 2012年4月24日 地球を救う新商売を見つけよう―グリーン成長実現への5つの論点

 筆者が今一番関心を寄せているテーマは、グリーンな経済なるものは果たして可能なのか、意義あるものなのか、ということであります。可能で意義あるものとすると、どのような行動、政策がそうした経済への移行に有効なのか、ということでもあります。本コラムはこの関心の視点から執筆しています。

 この6月には、ブラジル・リオデジャネイロで地球サミット20周年を記念して、国連の特別会合が開かれる。そのテーマも、グリーン・グロース(グリーン成長)である。世界が関心を寄せる理由は、リーマン・ショック以来、なかなか世界中が脱却できない金融を震源地とする不況が反省され、実需に裏付けられた堅実な経済を実現しようという動きが高まっていることにあろう。日本では特に、この20年にも及ぶデフレから脱出できる新しい経済の「目」の一つとしても環境に対し期待が掛けられている。

 これから、シリーズで、このテーマを追って論じていきたいが、その第1回となる本稿では、このテーマを考える上での枠組みをまずもって考察し、論点を整理しておきたい。少し長くなるがお許しいただきたい。

 そもそも経済学の教科書は次のように教えている。

 生産に要する資源に対し「その本来的な希少性に応じた価格を付けたときに、経済は最も効率的になる」と。

 この命題に照らすと、現実の経済は、環境の価値を過少に評価し、環境資源を浪費しているものだと筆者には思える。いわば環境バブルである。環境を安く使った分、市場価格は安くなり、歪んだ需要が生まれ、結果として、残された環境の価値は乏しくなってきている。例えば、福島第一原子力発電所の過酷事故は、大きな社会的な費用を顕在化させ、負債を発生させてしまった。私的な価格付け、そして費用負担が不十分だったことの結果である。高度な安全対策にもっと投資し、その分もっと高い電気を売ればよかったのである。これは、グリーン経済の一つの分かりやすい姿である。

論点① 経済パフォーマンスはGDPのみで測れるのか?

 それでは、そのように環境の価格が高まったら経済は困るのだろうか?列島を覆う放射能汚染を前にすれば、問うのも憚るべき問かもしれないが、敢えて考えてみたい。

 その答は「経済の定義に依る」と言える。経済を希少な資源の交換によって、経済的な福祉を高める活動と見れば、環境の価格が高くなることは、様々な有用物の相対価格が変わることと同義である。経済という活動をなくすものでもなんでもなく、福祉を損なうものでもなんでもない。本来あるべきことがあるようになっただけである。

 しかし、仮に、環境使用に対し割かざるを得ない資金が増え、GDPが、そうでないより増えなくなったとしよう(この点が真実か否かは、下記のとおり、別途に検討を要する点である。)。そうなると意見が分かれてくる。普通の反応は「GDPは減少しては困る」ということであろう。他方、GDPは、そもそも経済的な福祉を正しく反映しているかも疑問であるし、瞬間的な指標であって「長期的にはGDPを高めるかもしれない」との反論も可能である。

 言い換えれば「経済とはGDPだ」という思い込みが問題を生んでいるのである。ここに、筆者としては、第一の論点があることを確認しておきたい。国民や世界の人々の経済的な福祉の指標は何によって測られるべきか、という論点である。

論点② 環境重視で生じる分配面での摩擦へ対処せよ。

 本稿では、仮に、この指標として、伝統的に認められてきたように、GDPを使うこととして、さらに、グリーン経済の可能性を考える枠組みの考察を続けてみたい。

 GDPは、環境対策を進めることによって、当然に変化する。その変化は、冷静に考えれば、既に述べたように、環境バブルが矯正され、経済の本来の姿に戻っただけであるから、仮に、GDPが減るという極端なケースを考えたとしても、それは、バブル時代に得ていた見掛けの付加価値がなくなっただけである。問題はGDPの絶対値にではなく、相対価格の変化で既得権を失う者、逆に、新たな利益を得る者が出てきて、分配面の変化に伴う社会的な軋轢が生じる可能性があることにある、と言えよう。したがって、第二の論点として、分配面の変化にどう対応するか、ということを挙げておきたい(これは国内的にも問題であるが、むしろ、既成の先進国と新興国や途上国との交易関係の問題、あるいは異時点間の資源配分の問題として見ると一層重要な意味がある。後述の論点⑤参照。)。

論点③ 環境対策は経済へプラス効果も

 GDPがそれほど減らず、新たな付加価値が、バブルがはぎ取られて失う付加価値よりも大きかったりすれば、こうした分配変化に伴う軋轢も軽くて済む可能性がある。したがって、環境対策が、伝統的な経済指標であるGDPにどう影響するかを考えておくことも重要である。これを筆者としては、第三の論点に掲げたい。

 産業界などにある論理は、おそらく次のようなものだ。

 「環境を重視する経済は、環境を軽視する経済よりも小さい。なんとなれば、環境対策設備を作ったり、高い環境性能の製品を作り込んだりすれば、資源も、資本も、労働力も投じなければならない。環境対策は非生産的であり、迂回生産を高め、結果的に価格を高くする。こうした価格効果で需要が減り、経済は小さくなる上、本来の生産投資に回るべき資金などが、非生産投資に回るがために、供給力も小さくなる」

 果たしてそうであろうか。

 この点で日本には、多くの実証可能な経験がある。完全雇用の高度経済成長時代に、日本は、世界でも例のないドラスティックな公害対策の強化を行った。極めて大きな資金が排煙脱硫装置などに投じられた。その結果、日本経済は小さくなったのだろうか。実証研究によれば、経済は成長したというものも多くあり、少なくとも小さくなったということはないと言えよう。(さらに言えば、筆者が今も関わりを続ける水俣病のように、環境を無視すれば、経済的にも全然引き合わない。環境を重視することによる機会費用はマイナスとも言える。)

 環境の重視は、公害対策装置産業という新たな商売を生んだのである。その商売の誘発効果が、仮に、その新商売により発生した機会費用があったとしても、それにより失われた誘発効果に比べてなお大きかったのである。この辺の実証研究は、グリーン経済に向けて船出する勇気を私たちに授けてくれるはずである。

論点④ エコ商売を高く売り込め

 仮に環境対策は経済を大きくするとして、ここで、筆者は、第四の論点を立てたい。環境を商売のタネにしてよいと達観すれば、他の商売と比べての、環境の商売の特質、有利さ、他方での困難さ、を考えた上で、環境は反経済的というマインドセットを変えて、この商売を栄えさせていくにはどうすればよいか、を考えてみたらいいではないか、ということである。

 例えば、治安が悪くなれば警備会社の売り上げが増え、紛争が増えれば弁護士の稼得が増えるが、それ自体、マクロ経済的には、そして長期の経済発展上も、おそらく有意義だと思われる。環境対策にはこれらのビジネスと共通する側面もある。筆者としては、純粋にイノベーショナルな側面があるのではないかと感じている。それは、たとえば日本で独自に発展をしているラーメンである。新しい味のラーメンが高い値段で売り出され、そこに長蛇をなしてお客さんが並ぶ。この過程がさらに、ラーメンの味をよくする。お客さんの舌とラーメンの味との共進化(文末※1参照)が起きているのである。日本人の舌が肥えていなければ、栄養価だけでラーメンは評価され、値段はもっと安かったであろう。おいしいラーメンが発明され、私たちは千円近いお金を払うことがあり、そのお蔭で私たちは幸せになっている(ついでながら、GDPも増えていよう)。「環境は、なくなったら困るから、最小限守る」でも、守らないよりは大いに良いが、私の感じていることは、このおいしいラーメン商売のように、環境をもっとよいものにすることを「商売のタネにしたらどうか」ということである。

 地球環境に手入れをすることで人類は稼ぎを得て、暮らしていく。そうしたことができれば、これこそ究極のグリーン経済である。料理の喩えで、美味礼賛の著者、サヴァランを思い起こした。彼は「新しい料理の発見は新しい天体の発見に勝る」と、その価値を表現したが、今の時代に生きる私たちは、新しいエコなビジネスの発見は、「地球という天体を救う」と言うべきであろう。

論点⑤ 実社会を環境経済へ移行するには後押し策も必要

 グリーンな経済が運営可能なものであり、人々の福祉を高めるものであると分かったとしても、それへの移行を妨げる障害が強大であれば、実現は困難である。

 環境に取り組む人や企業がいて、他方では、そうでない人や企業や国がある中で、環境への取組みを強めることを、どのようにして実行可能なものにできるか、という論点を最後に掲げておきたい。

 究極的なグリーン経済を考えてみよう。例えば、太陽光発電に依存する暮らしである。太陽光発電は、その装置を作ったり据え付けたりするのに投入されたエネルギーを2年半程度で回収する。また、経済の面でも、補助金やFIT(※2)制度の下で10年強、それらがなくとも、20年程度で初期投資額を回収し、以降は、タダのエネルギーを供給する。他方、火力発電所や原子力発電所を見ると、どんなに長く稼働させても、稼働すれば稼働するほど総燃料費は増えていく。投入したエネルギーは電気に姿を変えるときにロスするし、電気を得るためには枯渇が心配される別のエネルギーを投入し続けるしかない。この単純なスケッチから、グリーン経済の方が、費用面でもエネルギー面でも優れていると、誰もが結論するに違いない。

 しかし実社会では「太陽光は元が取れますか」と尋ねられる。元が取れないのは火力発電の方なのに、である。ここで問題にされているのは、無限に少額の負担が続くことと、初期に相当大きな出費をしなくてはならないこととの比較である。突破する知恵は何かありそうに思える。

 また、日本だけ環境対策を強化したら「工場(つまり雇用)は外国に逃げていってしまいますよ」と脅かされることも多い。しかし環境費用やエネルギー費用が同じなら、アジア諸国との垂直分業の進行は止まるのだろうか?言い換えれば、エネルギー費用などが同じなら、日本は、中国と同じ産業で対等に戦えるのだろうか。この20年、日本は、費用を切り詰め切り詰め、製造コストを安くして戦ってきたが、どうだったろうか。結局、為替が円高に振れ、日本品の海外価格は相対的には下がらなかったし、国内ではデフレが定着し、実物の消費は冷えてしまった。いったい、日本などの先進国と新興国、途上国との間で産業をどのように配置するのか、されるのか、というのが本質的な問題である。たった一つの生産要素の価格が上がることへ、モグラ叩きのように対処することは、この難しい問題の先送りでしかない。

 しかし、環境重視で失いかねない、慣れ親しんだビジネスモデルや既得権への執着は強い。

 国内各部門、そして、国の内外、さらには現在と将来、そうした文脈で、環境重視に伴う資源配分の変化、結果としての分配面の変化はどんなことになるか、という論点は既に②に掲げたが、この点の考察を踏まえ、この論点⑤では、古い慣性を断ち切り、新しいグリーン経済への実際的な移行を果たす方策を探求し、提案したい。

 筆者には、この論点に関し、予感する答がある。

 それは、環境要素に対して進んで高い価格を付けることである。環境性能の良い物やサービスが安いことに越したことはないが、そうした供給側の努力には限りがある。下手をすれば、デフレ競争である。

 そうではなくて、今こそ消費者は、環境バブルを止めるイニシアチブを取ることができる。福島の事故は原発の発電コストには、十分な安全対策や過酷な事故が起きた場合の補償費用を見積もっていなかったことを明らかにした事例だろう。一般国民は「安いもの(原発)は、結果的に高い買い物だったと」悟らされた。消費サイドが意識改革し、環境価値を認める時期である。

 そこで、このシリーズには、「エコ買いな」と題を付けさせていただいた。

 これが果たしてエコかな、との疑いを読者に生じさせないよう、頑張って論じていきたい(このシリーズでは、各論点を順に網羅的に検討するわけではなく、その時々の話題を、いずれかの論点に照らしつつ論じていく)。

※1 共進化は、生物学や生態学で使われる言葉で、相互関係にある二つの生物種が、互いに影響を与えつつ形態などを進化させていくことを言う。ハチドリに蜜を与え花粉を託するランの花について、その花の形態とそれに適応するよう進化した特定のハチドリ種の嘴との関係が共進化の例として有名。

※2 FITは、フィード・イン・タリフの略で、太陽光発などの現在は高い費用の掛かる設備の導入を促すために設計された特別の電力買い入れ価格づけを言う。具体例には、家庭の太陽光発電のうち自家消費分を除いた余剰電力が、電灯線を遡って他のお宅に供給されるが、この時に電灯線を所有している電力会社がこの余剰電力を買い入れる価格は、通常の電力売値より現時点では倍程度に設定されていて、太陽光発電パネルを家庭が導入しやすくしていることなどがある。

(2012年4月24日)